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2009年01月04日

清張伝:生誕100年・ゆかりの人が語る/2 小野昭治さん

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090104-00000142-mailo-l40

1月4日13時2分配信毎日新聞◇小倉が好きだった 郷里の人に示す情と優しさ--オーエンオー会長・小野昭治さん(68)推理小説から古代・昭和史まで約
1000点もの作品を世に問い、「戦後文学界の巨人」とも呼ばれた松本清張。だが、北九州市小倉北区の飲食業「オーエンー」会長、小野昭治さん(68)は「人間・清張は情があって優しい人だった」と振り返る。小野さんの祖父は栗饅頭で知られる「湖月堂」(同区)の創業者。その息子で、小野さんには叔父に当たる故・五郎さんが清張と草野球のチームメートで大の仲良しだった。自伝「半生の記」では、作家デビュー前の暗い小倉時代がつづられている。だが、小野さんによると清張にも「青春時代」があったという。五郎さんのオートバイのサイドカーに乗って夏祭りに繰り出したが帰りに転倒。母親に縫ってもらったばかりの浴衣を破ってしまったなどというほほえましい思い出話も残されている。五郎さんは1940年4月19日に戦死。小野さんが生まれたのは2日後の21日だ。清張は小野さんを「五郎さんの生まれ変わり」とかわいがった。小野さんが東京の高校に通っていた56年、清張が下宿に突然現れた。小野さんにとって「よく家に来ていたおいちゃん」だった清張。この年、朝日新聞社を退社し作家活動に専念していた。「ご飯を食べに行くからすぐ用意しろ」。タクシーで出掛けた先は渋谷の食堂だった。小野さんが5人前ほどを一気に平らげると、金銭には無頓着で持ち金がなかった清張は時計を置いて帰ったという。以来、小野さんに限らず兄弟6人が機会あるごとに食事に誘われた。だが、作品の話など全くせず、小倉の話が多かった。「好奇心旺盛で『学校でどんな遊びがはやっているのか』ということも聞かれた」という。小倉時代、家に遊びに来た清張を小野さんの両親は大変かわいがった。特に母親の故・悦子さんは清張を弟のように思っており「テレビに出ている清張さんを見て、お袋は『もっとあご引くように心がけなさい』と電話したり。大作家によくズケズケ話をするなと思ってました」。芥川賞受賞後も悶々(もんもん)としていた清張に「あなたならば大丈夫。東京に行きなさい」と背中を押したのも悦子さんだった。53年12月に上京した清張は売れっ子作家の階段を駆け上がった。だが、57年5月にはこんな手紙を悦子さんに送っている。「文壇というものはなかなか厄介な存在で、時々、東京なんか出て来ずに、小倉で平穏な生活をつづけていた方がよかったなどと考えることもあります」親しい「姉」にだけみせた弱気だった。小野さんは言う。「会えば必ず『あの人はどうしているか』『あの店はどうなったか』と小倉のことを聞いていた。清張さんは小倉にものすごく関心があり、小倉が好きだったのだと思う」

[引用元:Yahoo[福岡(毎日
新聞)]
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    Posted by ふくみ at 18:05日記